今日の日記

2003年9月10日
昔北海道で起きた、幼児2人を視殺して、1人を視傷した20代の男がまだ将来に可能性があるとして無期懲役になったそうである。
これから考えるに、殺された二人の幼児の可能性よりも、殺した20代の男性の可能性のほうが大きいと言うことである。死んだら可能性がなくなるからしょうがないのかもしれない。
さて人の可能性はどの時期が一番高いと司法では判断されるのだろうか。
幼児は標準偏差が大きすぎて可能性は小さく見積もられるかもしれない。老人は標準偏差が小さいが平均値も低いので可能性は低いことが予想される。
ではそれ以外の人の可能性は平等なのだろうか。そもそも可能性とは何だろうか。私は犯罪を再び起す可能性のことではないかと思ってしまいます。裁判所も商売なので喰いっぱぐれを心配して再犯しそうな人をドンドン解放してるようにしか私には見えない。
そもそも裁判官が人を見てそいつの善悪などが判断できるとは思えない。裁判官もただの人である。裁判制度改革で陪審委員を置くと言うのもあるが、陪審員など裁判官以下の判断力しか持たない人である。そんな人が判断するのも良くないと思う。そこで私は新しい裁判官は、占い師に限定すればいいと思う。採用試験は占いで人を占ってもらって、その占いが正確だった人を採用していけばそこそこの司法は維持していけるのではないだろうか。

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