7月11日の日記
2006年7月10日人生が楽しくないのは死の恐怖に囚われているからではないだろうか。昔、あほすぎる赤ちゃんを見たときに、しゃべれもしない、固形物も食えない、もちろん自分でご飯を食べることも、排泄物の処理も、、自分でできるのは不快な時に泣くだけの社会不適合者なのになぜこんなに幸せそうなんだろうと思ったことがある。若い赤ちゃんは、例えばレジ袋を触って音を出しているだけで幸せそうにしている。他にも、ティッシュペーパーをただ無意味に出してるだけで幸せそうな顔をする。他にも新聞をぐしゃぐしゃにしたりホント無意味で何の益も生まないことをして喜んでいる。そんな姿をみてうらやましくすら思った。何もできないけれどどんなことでも楽しめる。あと馬鹿みたいにあきが来ない。くどいというほど同じことをして喜んでいられる。なんて幸せなんだろうか。
そんな赤ちゃんと自分の違いを考えていて、自分の欠陥に気がついたかもしれない。死を意識した時から人間はだんだんデプレッションになっていく。無意味なことを楽しめなくなる。同じことをするのが無意味に思える。すべてのものが無意味に感じてくる。これらは死を意識して時間が有限だと悟ったからではないだろうか。有限だからこそ意味のあることがしたい。そう思うことが逆に枷となって幸せを感じれなくなっていく。昔は楽しかったことが今ではそう感じない。その上新しく楽しく感じることもない。すべて死を意識したせいではないだろうか。
道路を渡るとき左右確認しなくても飛び出せる子供はきっと人生楽しいことで一杯なんだろう。そう考えていくと、年をとっていくともう一度楽しい時がやってくるかもしれないね。後先考えずに死を恐れず行動するのは、子供と老人である。まあ私も酒の力を借りて道路で寝て幸せを感じることにしますか。
ホントによ。最初に死んだ奴はだれだよな。死んだ奴を認識したせいで私は幸せを感じれなくなってしまった。ネコでさえ死ぬ時に象の墓場へ行き人知れず死んでいくのだから、人間も死を察知したらまわりの人の幸せを奪わないように行方不明になって欲しいよ。
そんな赤ちゃんと自分の違いを考えていて、自分の欠陥に気がついたかもしれない。死を意識した時から人間はだんだんデプレッションになっていく。無意味なことを楽しめなくなる。同じことをするのが無意味に思える。すべてのものが無意味に感じてくる。これらは死を意識して時間が有限だと悟ったからではないだろうか。有限だからこそ意味のあることがしたい。そう思うことが逆に枷となって幸せを感じれなくなっていく。昔は楽しかったことが今ではそう感じない。その上新しく楽しく感じることもない。すべて死を意識したせいではないだろうか。
道路を渡るとき左右確認しなくても飛び出せる子供はきっと人生楽しいことで一杯なんだろう。そう考えていくと、年をとっていくともう一度楽しい時がやってくるかもしれないね。後先考えずに死を恐れず行動するのは、子供と老人である。まあ私も酒の力を借りて道路で寝て幸せを感じることにしますか。
ホントによ。最初に死んだ奴はだれだよな。死んだ奴を認識したせいで私は幸せを感じれなくなってしまった。ネコでさえ死ぬ時に象の墓場へ行き人知れず死んでいくのだから、人間も死を察知したらまわりの人の幸せを奪わないように行方不明になって欲しいよ。
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