3月5日の日記
2007年3月5日最近時間が無い、気がつく一日が終わっていると思っていたら、DSでゲームをしていたのが問題だったようである。しかし何年経ってもゲームは進歩しないものだ。今だに昔私が感じだ不満は解決しないまま進んでいるようである。
さて、最近世界樹の迷宮というゲームをしていた。自分で、マップを描いていくことが売りのRPGだ。
最初は物珍しさもあって、まじめに地図を書き込んでいた。しかし、飽きっぽい私は、数階分地図を描いていたら地図を描くことに飽きてしまった。それに本は2度読まない主義の私は、RPGも似たようなもので、同じ迷宮を2度探索することなんてない。すなわち、完璧に地図を描いていってもそれを利用する機会が無いことに気がついて、階段以外の位置を地図に書くことはなくなった。しかし、地図に情報は書き込まなくなったが、一応すべてのフロアを探索してから次の階に行くことを心がけていた。しかし、昨日とうとうそれにも飽きてしまった。イベントだけ消化してフロア探索もせずに階段捜して物語を進めるようになってきた。敵が強くて行き詰ったら、レベル上げだ。
しかしそろそろゲーム自体に飽きてきたかもしれない。この単調な作業がどうしても私にはあわない。なぜ私はしたくも無いレベル上げをしなければならないのだろうか。なぜ迷宮を探索しないといけないのだろうか。物珍しさがきえてこなれてくるとゲームが作業にかわる。ゲームはみんなそんな感じである。一つのゲームであるかぎり根幹のシステムは一種類である。私はそのシステムになれるともうゲームを楽しむことが出来なくなっているのである。どうせなら、ゲーム開発段階で没になったシステムを組み入れて欲しい。没になったシステムに飽きる頃、第一階層を終えて次の階層に踏み入れる段階で、次のシステムに刷新されて感動を覚えるのである。
そんな感じでわずらわしさを感じないゲームだったらよかったのになと思ったのだが、よく考えたらそんな事関係なかったかもしれない。かねがねRPGでストーリーだけをさらっていくモードがあればどんだけ私にあっているだろうかと思っていたのだが、考えてみたら私はひぐらしのなく頃というゲームも挫折していた。ストーリーだけのゲームだった。ストーリーも面白いと思った。しかし、ゲームを最後までやり遂げることが出来なかった。
結局なんだ。何が悪かったのか考えてみた結果ゲームが悪いから私が最後まで成し遂げれないのではなく、ゲーム自体にあわない私が悪いんだろうね。やる気の無さでゲームにまで見放されてしまった私はどうすればいいのだろうか。
私が挫折したといえば、ゲームも勉強も似たようなものなのかね。ただ違いは勉強はやっても確実に効果がやった時間に比例するとは限らない。ゲームはやったらやっただけ効果があらわれる。だから、最近のゲーム世代は、物事に挑戦して失敗した時に自分はがんばったんだから褒めてくれよといっちゃったりする。どんなにがんばってつくってもマズイ料理はまずいのである。がんばったとかは関係ないのだが、がんばったから褒めてくれなんて甘いこと言っちゃってと思っていたのだが、やったことがやっただけ評価されるゲームをしてきたせいで、最近の若い人は頭がおかしくなっているのかもしれないね。それに係わる人もそれを肯定しだしているとしたら、私以外みんなおかしくなっているんじゃないだろうか。それはすなわち、客観的にみれば私がおかしい証左ということになるのだろうか。
さて、最近世界樹の迷宮というゲームをしていた。自分で、マップを描いていくことが売りのRPGだ。
最初は物珍しさもあって、まじめに地図を書き込んでいた。しかし、飽きっぽい私は、数階分地図を描いていたら地図を描くことに飽きてしまった。それに本は2度読まない主義の私は、RPGも似たようなもので、同じ迷宮を2度探索することなんてない。すなわち、完璧に地図を描いていってもそれを利用する機会が無いことに気がついて、階段以外の位置を地図に書くことはなくなった。しかし、地図に情報は書き込まなくなったが、一応すべてのフロアを探索してから次の階に行くことを心がけていた。しかし、昨日とうとうそれにも飽きてしまった。イベントだけ消化してフロア探索もせずに階段捜して物語を進めるようになってきた。敵が強くて行き詰ったら、レベル上げだ。
しかしそろそろゲーム自体に飽きてきたかもしれない。この単調な作業がどうしても私にはあわない。なぜ私はしたくも無いレベル上げをしなければならないのだろうか。なぜ迷宮を探索しないといけないのだろうか。物珍しさがきえてこなれてくるとゲームが作業にかわる。ゲームはみんなそんな感じである。一つのゲームであるかぎり根幹のシステムは一種類である。私はそのシステムになれるともうゲームを楽しむことが出来なくなっているのである。どうせなら、ゲーム開発段階で没になったシステムを組み入れて欲しい。没になったシステムに飽きる頃、第一階層を終えて次の階層に踏み入れる段階で、次のシステムに刷新されて感動を覚えるのである。
そんな感じでわずらわしさを感じないゲームだったらよかったのになと思ったのだが、よく考えたらそんな事関係なかったかもしれない。かねがねRPGでストーリーだけをさらっていくモードがあればどんだけ私にあっているだろうかと思っていたのだが、考えてみたら私はひぐらしのなく頃というゲームも挫折していた。ストーリーだけのゲームだった。ストーリーも面白いと思った。しかし、ゲームを最後までやり遂げることが出来なかった。
結局なんだ。何が悪かったのか考えてみた結果ゲームが悪いから私が最後まで成し遂げれないのではなく、ゲーム自体にあわない私が悪いんだろうね。やる気の無さでゲームにまで見放されてしまった私はどうすればいいのだろうか。
私が挫折したといえば、ゲームも勉強も似たようなものなのかね。ただ違いは勉強はやっても確実に効果がやった時間に比例するとは限らない。ゲームはやったらやっただけ効果があらわれる。だから、最近のゲーム世代は、物事に挑戦して失敗した時に自分はがんばったんだから褒めてくれよといっちゃったりする。どんなにがんばってつくってもマズイ料理はまずいのである。がんばったとかは関係ないのだが、がんばったから褒めてくれなんて甘いこと言っちゃってと思っていたのだが、やったことがやっただけ評価されるゲームをしてきたせいで、最近の若い人は頭がおかしくなっているのかもしれないね。それに係わる人もそれを肯定しだしているとしたら、私以外みんなおかしくなっているんじゃないだろうか。それはすなわち、客観的にみれば私がおかしい証左ということになるのだろうか。
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