7月3日の日記
2007年7月3日最近日本の繁華街にパンダを呼び込みたいのかと思えるぐらい街に竹があふれている。あっパンダは笹かまぼこか。まあ七夕に向けて街には短冊つきの竹がそこらじゅうに置かれている。
私は短冊に書くような神頼みや人に頼んでまで叶えたい願いがもうないので、他人がどのようなことを書いているのか竹につけられている短冊を見ていた。人の願い事が書かれた紙は見ていて面白いものだった。
幅広い年齢層の人が短冊を書いているようだったが、字が汚い私が見ても字が汚いと思ったりひらがなを書き間違えているような字を覚えてる途中の子供が書いたような短冊には、実現可能かなんて考えていない本当に夢が書かれていた。例えば『プリキュアになりたい』こんな願い事が書かれていた。キュアホワイトになりたいのかキュアブラックになりたいのか、それともキャラではなくプリキュアという作品になりたいのかといろいろ疑問がわいてきた。他にももしプリキュアになったとして何がしたいかも疑問である。これを書いた子供の周りには悪の組織があるのだろうか。また自分が正義の味方になるためには、周りにいる人たちが悪の組織の構成員に危害を受けなければいけない。今は平和なのに、その平和を捨ててまで正義の味方にあこがれるのだろうか。気付いていないだけかもしれないが、子供向けのヒーローものは、まず最初にヒーローがいるわけではなく、悪の組織出現などで必要にかられてヒーローが誕生する場合がほとんどである。だからヒーローになることを望むということは、悪の組織出現を望むということにほかならない。
さて、字が綺麗で漢字なども豊富に使われた大人が書いたと思われる短冊には、自分の行動しだいで実現できそうな夢というよりは目標と思われる書き込みが多かった。特に多かったのは、『○○とずっと一緒に入れますように』のようなカップルで来て場の雰囲気で書いたようなモノである。大人になると願いが現実によりすぎていけない。
他というと小学生が書いたと思われる短冊に面白いものがあった。『100円玉が2万個欲しい』というものである。多分小学生にしてみれば、100円玉2万個は想像もできないような大金なんだろう。しかし、考えてみれば100円玉が2万個でも200万円にしかならない。すこし額は多いが大人になれば手に入らない額ではない。この短冊をみて小学生っていいなと思った。ちなみに私はショタコンではないですから、物体としての小学生がいいわけではなく、発想の方向性に憧れを感じる。
私は短冊に書くような神頼みや人に頼んでまで叶えたい願いがもうないので、他人がどのようなことを書いているのか竹につけられている短冊を見ていた。人の願い事が書かれた紙は見ていて面白いものだった。
幅広い年齢層の人が短冊を書いているようだったが、字が汚い私が見ても字が汚いと思ったりひらがなを書き間違えているような字を覚えてる途中の子供が書いたような短冊には、実現可能かなんて考えていない本当に夢が書かれていた。例えば『プリキュアになりたい』こんな願い事が書かれていた。キュアホワイトになりたいのかキュアブラックになりたいのか、それともキャラではなくプリキュアという作品になりたいのかといろいろ疑問がわいてきた。他にももしプリキュアになったとして何がしたいかも疑問である。これを書いた子供の周りには悪の組織があるのだろうか。また自分が正義の味方になるためには、周りにいる人たちが悪の組織の構成員に危害を受けなければいけない。今は平和なのに、その平和を捨ててまで正義の味方にあこがれるのだろうか。気付いていないだけかもしれないが、子供向けのヒーローものは、まず最初にヒーローがいるわけではなく、悪の組織出現などで必要にかられてヒーローが誕生する場合がほとんどである。だからヒーローになることを望むということは、悪の組織出現を望むということにほかならない。
さて、字が綺麗で漢字なども豊富に使われた大人が書いたと思われる短冊には、自分の行動しだいで実現できそうな夢というよりは目標と思われる書き込みが多かった。特に多かったのは、『○○とずっと一緒に入れますように』のようなカップルで来て場の雰囲気で書いたようなモノである。大人になると願いが現実によりすぎていけない。
他というと小学生が書いたと思われる短冊に面白いものがあった。『100円玉が2万個欲しい』というものである。多分小学生にしてみれば、100円玉2万個は想像もできないような大金なんだろう。しかし、考えてみれば100円玉が2万個でも200万円にしかならない。すこし額は多いが大人になれば手に入らない額ではない。この短冊をみて小学生っていいなと思った。ちなみに私はショタコンではないですから、物体としての小学生がいいわけではなく、発想の方向性に憧れを感じる。
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