8月28日の日記

2007年8月28日
大きな勘違いをしていた。テレビに騙されていたのである。
わかりやすい例としていじめで説明する。いじめに限ったはなしではない。
いじめは、いじめる側といじめられる側どちらが悪いのか?という議論がある。公の立場での発言は大体いじめる側が一方的に悪い、巷のアンケートなどでは、両方悪いという意見が多そうな感じである。
さていじめは誰が悪いのだろうか?
悪いのはこの質問である。悪いの定義が明確でないのがいけない。法律的や道徳的に悪いのは、いじめる側だろう。しかしいじめが起こった原因は、いじめる側にあることもあるだろうし、いじめられる側にあることもある。
法的や道徳的に正しいことといじめられないために正しいことは同一ではないのである。例えば、いじめられている子を助けようとして自分までいじめられることになった人がいる。そいつは道徳的には正しい行いをしている。だから良い未来が待っているなんてことはまったく無い。そいつは、自分がいじめられない為にとる行動として最悪の行いをした。だからいじめられる未来が待っている可能性が高い。

社会はそれを混同してしまっているのではないだろうか。少なくともいじめられない事を最上位として考えるなら、いじめられたときに自分を守れないのならば、目の前にいじめられている人がいても無視すべきである。道徳的に間違っているとしても、道徳よりいじめられないことが大切なら、その行いは誤りではない。
いじめが何でなくならないかと言えば、多くの人がいじめを道徳的や法律的にしか考えないからである。道徳的や法律的に考えたらいじめる側が悪くいじめられる側に自衛法は無いとなってしまう。そんなんでいじめがなくなるはずが無い。
もしいじめられない為にはどうすれば良いかを最優先で考えていけばいじめを無くすことができるのではないだろうか。法的、道徳的に間違っていてもそんなものよりいじめが悪いという善悪判断を行えば確実にいじめは減らせると思う。まあ、そんな方法でいじめがなくなっても今より良い世界になる保証は無いのだけど。
すべての問題にこれがいえる。どの視点からみて善悪を判断するかによって同じ行動でも善悪は変わってくる。私達は、法律や道徳一辺倒ではなく、どの視点から善悪を判断するかまずはそこから考える必要があるのではないかね。

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