11月30日の日記

2007年11月30日
私が子供の頃望んでいた事が最近の子供はだんだんと叶えられているような気がする。私は小さい時から学校が嫌いだったので、何は無くても学校を休みたくてしょうがなかった。共働きだった事もあり親はそう簡単には学校を休ませてくれなかった。だからズル休みして一日中ゲームが出来た日なんかは最高に幸せだった。日曜日を一日ゲームに費やすと徒労感とか一日を無駄にしたなという罪悪感にさいなまれてしまう。しかし、同じ事をしているはずなのに、学校をズル休みして行うゲームは爽快感を感じる事ができるのだ。
成長して今になってみると、当時必死にして身についたゲームの技術のおかげで、仕事についてゲーム時間が減った今も短時間でゲームをクリアする事ができ沢山のゲームを遊ぶ事ができている。今まったく役に立っていない勉強とはえらい違いである。
そんなこんなで、私が親になる事は無いだろうけど、私が子供を育てる事があったら、学校を休みたいと言う時はいつでも休ませてあげようと思っていた。学校だけではない、食べたくないものがあってご飯を残したとしても怒ったりはせずに、次回からは子供の食事だけその嫌いな食材を抜いた料理をあげようと思っていた。もしご飯なんて食べたくない、おかしいがいいと言えば子供だけポテトチップスを主食にしてもいいと思っていた。健康に育って欲しいとか親の自己中心的な願望を子供に押し付けないで育てれたらいいなと思っていた。法律には厳しく育てたいが、自己責任で片付くような事は、子供が自分で判断できない時から、すべて子供に一任してしまいたいと思っていた。親がちゃんとした道に導いてくれなかったと文句を言われる方が私はいい。
そしたらなんと、そんな常識人からみれば非常識といわれる育て方をしている親が増えてきているらしい。子供嫌いが親になっているのだろう。まあ、私はすばらしい傾向だと思ったのだが、多数派の常識人は物凄くそれが気に入らないようである。そんな育て方をすると自分勝手な子供になると苦言を言っていたりする。そんな事をいう自分が一番自分勝手なのに気がついていない。

子供の頃、ご飯を残した時にこんな嫌味を言われた事は無いだろうか。「世界にはご飯を食べれなくて餓死している子供が沢山いるというのに、好き嫌いでご飯を残して恥ずかしくないのか!」私はこんな事言われるのが非常に嫌いだった。当時、馬鹿だったのでこれの何が嫌なのかはわからなかった。最近やっと何が嫌だったかわかった。いつも親はご飯を食べ残した方を一方的に悪と決め付けて糾弾してきた。しかしそれはおかしいだろう。ご飯を作る方には残飯が出た事に対する責任は無いのだろうか。私が嫌いなモノを食べずに残すと知っていたのに、その嫌いなモノが残飯になる事がわかっているのに料理する親には責任は無いのだろうか。ご飯を一方的に押し付けて、残したら怒るなんておかしい。残す方も残すような料理を作った方も両方同じくらい悪いんじゃないかね。少なくとも残さないように少量美味しい物さえ作ってくれれば私は食べ残さなかった。
ある食べ物を食べない事よりも、必要以上に食べ物を用意する事の極悪さを認識するべきではないかね。日本人はいつもそうだ。

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