12月22日の日記
2007年12月22日違う経路で似たようなニュアンスの話を聞いた。初めてその話を聞いたときは、にわかには信じれなかったが、まったく別の経路から再度その話をされると信じてもいいような気になってきた。
その話というのは、最近巷には泣ける物語が氾濫している。多くの人が感動して泣ける話はすばらしいという風潮すらある。しかし、物語の作り手が言うには、泣ける話というのが一番質の低い創作であるらしい。多くの人は、感動して泣ける物語に出会うとその物語がすばらしいから感動したと思うらしい。しかし、今世にでている99%以上の感動する話は、死であったり失恋であったりある決まった設定がでてくる。読み手はそれを自分の体験におきかえたり、自分の感動するシチュエーションに重ね合わせて感動するらしい。死であったり失恋であったり絶望であったりそのイメージ泣いているだけで泣くのと物語とはあんまり関係ないらしい。特に多くの人が泣くということは、それだけ多くの人が共感できるように薄く個性を省いて標準化された物語ということで、創作としては低レベルらしい。ではすばらしい物語とは何かと言われれば、何が良いのか何が面白いのかわからないけどなぜかみんな最後まで見てしまう物語である。
本を読むとこころを育てるのにいいと言われて、感動をさそうしょうもない本を大量に読んだ私は、標準化された感動物になれて心を動かされ無いようになってしまった。それが物語りだけの話だったら何の問題もなかったのだが、最近現実の出来事にまで同様の症状が現れてきてしまったのである。家族を殺された遺族は決まって、殺された家族が悔しがってるとか悲しがってるとか、遺族自分が思っていることを死んだ人の気持ちとして周りに伝える。昔は共感してそんなことにも泣けたのに、最近は自分が悲しいからといって周りに悲しみを撒き散らすのは迷惑だと思うようになってしまった。私に共感を求めてくるすべてにムカつきを覚えるようになってしまった。
こんな事もあるので、あまり本を読むことを人に勧めるのもどうかと思います。なんと言っても今世にある本の9割9分以上が駄作ですから、現実も同じくらい駄作なんですけどね。
その話というのは、最近巷には泣ける物語が氾濫している。多くの人が感動して泣ける話はすばらしいという風潮すらある。しかし、物語の作り手が言うには、泣ける話というのが一番質の低い創作であるらしい。多くの人は、感動して泣ける物語に出会うとその物語がすばらしいから感動したと思うらしい。しかし、今世にでている99%以上の感動する話は、死であったり失恋であったりある決まった設定がでてくる。読み手はそれを自分の体験におきかえたり、自分の感動するシチュエーションに重ね合わせて感動するらしい。死であったり失恋であったり絶望であったりそのイメージ泣いているだけで泣くのと物語とはあんまり関係ないらしい。特に多くの人が泣くということは、それだけ多くの人が共感できるように薄く個性を省いて標準化された物語ということで、創作としては低レベルらしい。ではすばらしい物語とは何かと言われれば、何が良いのか何が面白いのかわからないけどなぜかみんな最後まで見てしまう物語である。
本を読むとこころを育てるのにいいと言われて、感動をさそうしょうもない本を大量に読んだ私は、標準化された感動物になれて心を動かされ無いようになってしまった。それが物語りだけの話だったら何の問題もなかったのだが、最近現実の出来事にまで同様の症状が現れてきてしまったのである。家族を殺された遺族は決まって、殺された家族が悔しがってるとか悲しがってるとか、遺族自分が思っていることを死んだ人の気持ちとして周りに伝える。昔は共感してそんなことにも泣けたのに、最近は自分が悲しいからといって周りに悲しみを撒き散らすのは迷惑だと思うようになってしまった。私に共感を求めてくるすべてにムカつきを覚えるようになってしまった。
こんな事もあるので、あまり本を読むことを人に勧めるのもどうかと思います。なんと言っても今世にある本の9割9分以上が駄作ですから、現実も同じくらい駄作なんですけどね。
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