1月4日の日記
2008年1月4日紅白の映像を少し見る機会があったのだが、某女性歌手が最後歌わずにマイクを置いて手話で歌詞を表現していた。アホじゃないかね。それとも、視覚障害者を馬鹿にしているのかね。見ていて物凄い違和感を感じた。もっと振動を伝える機器を用意するとかの方がいいんじゃないのかね。
そういえば視覚障害者は、夜蛍光灯をつけるのかね。地球温暖化防止の為の二酸化炭素排出量削減のために、コンビニの夜間営業をやめさせるみたいな話が出ていた。もし、私がこれから出会う人すべての人の眼を潰して視覚障害者にしていったら、モニターと照明に使われている電気が使用されないようになるのだろうか。案外視覚障害者はエコなのか。
まあ冗談はさておき、年末の番組を見る機会があったのだが、前言を撤回したくなりました。ブログで西野氏がいっていた通りキングコングのネタはそれほど面白くありませんでした。イロモノ好きの私としてはザブングルがよかったんですけど、漫才の面白さとは少し違うのかね。そもそも、M1の選考基準がよくわからんね。面白さを競っているのか、漫才の技術を競っているのかどりらなんでしょうか。
それにしても最近の漫才師は大変ですね。昔の漫才師や芸人さんたちはただの喜劇役者でした。例えば高名なやすしきよしにしても、やっていた漫才の脚本は違う人が書いたものでした。エンタツアチャコもネタを考えていたのは別人だったと思います。昔の芸人は、作家が書いたネタを演じる喜劇俳優でしかありませんでした。吉本新喜劇の出演者もそうですが、昔の芸人はただ喜劇が上手く演じれればそれでようござんした。しかし、最近の若手芸人は、自分でネタを考えた上にそのネタを自分で演じなければいけません。それはかなり大変なこと何じゃないかね。映画にしてもテレビにしても、分業が進んでいます。演技したい人は俳優になるし、話の筋を考えるのが得意な人は、放送作家になったり脚本家になったりします。なんで、最近の芸人はすべてじぶんたちでするようになったのかね。ネタを考えるのとそれを演じるのを両立するのはむずかしすぎるんじゃないかね。M1では両方そこそこできる人しか選べないんじゃないんかね。
他にも例えば、漫画界は分業が進んでいて、絵を書く人とストーリーを考える人が分かれている事があります。しかし、画家になると大体が1人で、構図と作画を担当します。もしかしたら、絵画なんかも、構図と作画を二人に分けたほうがすばらしい絵ができるんじゃないかね。
そういえば視覚障害者は、夜蛍光灯をつけるのかね。地球温暖化防止の為の二酸化炭素排出量削減のために、コンビニの夜間営業をやめさせるみたいな話が出ていた。もし、私がこれから出会う人すべての人の眼を潰して視覚障害者にしていったら、モニターと照明に使われている電気が使用されないようになるのだろうか。案外視覚障害者はエコなのか。
まあ冗談はさておき、年末の番組を見る機会があったのだが、前言を撤回したくなりました。ブログで西野氏がいっていた通りキングコングのネタはそれほど面白くありませんでした。イロモノ好きの私としてはザブングルがよかったんですけど、漫才の面白さとは少し違うのかね。そもそも、M1の選考基準がよくわからんね。面白さを競っているのか、漫才の技術を競っているのかどりらなんでしょうか。
それにしても最近の漫才師は大変ですね。昔の漫才師や芸人さんたちはただの喜劇役者でした。例えば高名なやすしきよしにしても、やっていた漫才の脚本は違う人が書いたものでした。エンタツアチャコもネタを考えていたのは別人だったと思います。昔の芸人は、作家が書いたネタを演じる喜劇俳優でしかありませんでした。吉本新喜劇の出演者もそうですが、昔の芸人はただ喜劇が上手く演じれればそれでようござんした。しかし、最近の若手芸人は、自分でネタを考えた上にそのネタを自分で演じなければいけません。それはかなり大変なこと何じゃないかね。映画にしてもテレビにしても、分業が進んでいます。演技したい人は俳優になるし、話の筋を考えるのが得意な人は、放送作家になったり脚本家になったりします。なんで、最近の芸人はすべてじぶんたちでするようになったのかね。ネタを考えるのとそれを演じるのを両立するのはむずかしすぎるんじゃないかね。M1では両方そこそこできる人しか選べないんじゃないんかね。
他にも例えば、漫画界は分業が進んでいて、絵を書く人とストーリーを考える人が分かれている事があります。しかし、画家になると大体が1人で、構図と作画を担当します。もしかしたら、絵画なんかも、構図と作画を二人に分けたほうがすばらしい絵ができるんじゃないかね。
コメント