「なぜ数学を勉強しなければいけないんですか?」という疑問は甘えではないだろうか?別に数学だけではない、「なぜ勉強しなければいけないのか?」という疑問を質問することは甘えだと思う。別に誰に聞くまでもなく、勉強が不要だと思っているのなら勉強しなければいい。
勉強しなくていいよと立場上答えれない人にその質問をする事は、甘えである。
例えば、学校の先生だったら誰も勉強しなかったら、先生という存在が必要なくなる。自分が教師である以上、給料もらって生活する為に教育を受ける者が必要になる。例えば、大学の教授だったら、別に学生に勉強を教えなくても、素晴らしい研究をすれば評価される。誰も学生がいなくなっても生活が成り立つので、勉強しろなんていう人はへる。
わざわざ、学校に行って教師に「なぜ勉強しなければいけないんですか?」と聞く行為は、この日記に「くだらない」とコメントを残すぐらい不毛な行為である。今日はクリスマスイヴだよ。なぜ勉強するかという疑問は学校に通う前に解決しないといけない。
親に質問するのも同様である。手に職を持っていてそれで生活できるような親だと勉強しろ何て言わず「勉強なんてするな。そんな暇あったら修行しろ」と言ってくる。子供はそこを頭を下げてなんとか勉強させてもらい、勉強が出来るようになったらハイさようならと実家から逃亡していく。
手に職を持っていない親の場合、子供には勉強して就職してもらわないといけない。というか、「なぜ勉強しなければいけないんですか?」と疑問に思う子供は勉強しなかったら何をするのだろうか?親の扶養をうけて一日中ゲームをしているんだったら、そもそも親がその子供を育てる意味がなくなる。お金持ちは別かもしれないな。それで一日中ゲームする人生を認めてニートがうまれる。
案外、道徳教育で植付けられる親は子供に無償の愛を持つなんて偽りを教えるのが悪いんじゃないだろうか。
子「なぜ勉強しなければいけないんですか?」
親「勉強したくなければしなくていいけど、将来性のない子供を扶養する気はないよ」
子「それなら、春を売って自分で生活するからいい」
親「じゃあ私がそれをかおう」
無情の愛だな。裕福な親じゃなかったら、人生破滅しかないな。
ふと思ったんだけど、子供に将来の夢を聞くと、職業を答えるのはなんなんだろうか。宝くじ当てて1日中ゲームして暮らすみたいな生活の方が魅力的に思える。夢なのに仕事をする自分を想定するってのは、人間は働かないといけないという観念がどこかで発生しているのかね。
まあメリークリスマス
勉強しなくていいよと立場上答えれない人にその質問をする事は、甘えである。
例えば、学校の先生だったら誰も勉強しなかったら、先生という存在が必要なくなる。自分が教師である以上、給料もらって生活する為に教育を受ける者が必要になる。例えば、大学の教授だったら、別に学生に勉強を教えなくても、素晴らしい研究をすれば評価される。誰も学生がいなくなっても生活が成り立つので、勉強しろなんていう人はへる。
わざわざ、学校に行って教師に「なぜ勉強しなければいけないんですか?」と聞く行為は、この日記に「くだらない」とコメントを残すぐらい不毛な行為である。今日はクリスマスイヴだよ。なぜ勉強するかという疑問は学校に通う前に解決しないといけない。
親に質問するのも同様である。手に職を持っていてそれで生活できるような親だと勉強しろ何て言わず「勉強なんてするな。そんな暇あったら修行しろ」と言ってくる。子供はそこを頭を下げてなんとか勉強させてもらい、勉強が出来るようになったらハイさようならと実家から逃亡していく。
手に職を持っていない親の場合、子供には勉強して就職してもらわないといけない。というか、「なぜ勉強しなければいけないんですか?」と疑問に思う子供は勉強しなかったら何をするのだろうか?親の扶養をうけて一日中ゲームをしているんだったら、そもそも親がその子供を育てる意味がなくなる。お金持ちは別かもしれないな。それで一日中ゲームする人生を認めてニートがうまれる。
案外、道徳教育で植付けられる親は子供に無償の愛を持つなんて偽りを教えるのが悪いんじゃないだろうか。
子「なぜ勉強しなければいけないんですか?」
親「勉強したくなければしなくていいけど、将来性のない子供を扶養する気はないよ」
子「それなら、春を売って自分で生活するからいい」
親「じゃあ私がそれをかおう」
無情の愛だな。裕福な親じゃなかったら、人生破滅しかないな。
ふと思ったんだけど、子供に将来の夢を聞くと、職業を答えるのはなんなんだろうか。宝くじ当てて1日中ゲームして暮らすみたいな生活の方が魅力的に思える。夢なのに仕事をする自分を想定するってのは、人間は働かないといけないという観念がどこかで発生しているのかね。
まあメリークリスマス
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