3月8日の日記

2007年3月8日
久しぶりに役に立つ事を思いついたかもしれない。たぶん、自分で死にたくてどうしようもなくなって自殺する人は少数だと思う。多くの自殺者は、好き好んでまで自分で死にたくは無かったが、他に楽になる方法もなく死んでいくのではないかね。
まあなんだ、自殺者には他の納得できる死ぬ方法を教えさえすれば自殺はしなくなるのではないだろうか。どうせ死ぬのなら、誰だって人に迷惑をかけない、心臓麻痺で病死の方がいいのではないだろうか。心臓麻痺で死んでいたら誰だってそれを見て自殺したなんて思わないだろう。
だからデスノートを見つけてきてそこに自分の名前を書けばいいんですよね。まあ、自殺しようとしている人に今からデスノート探しの旅に出ようなんて言っても無駄でしょう。
そこで誰でもいつでも出来る楽に病死する方法を代案として紹介すれば一時的に自殺を思いとどまらせれるのではないだろうか。では具体的にそれがどういう方法かというと、呪いみたいなものです。
プラセボやプラシーボ効果と言う言葉を知っているでしょうか。日本語では偽薬効果と書くんだったかな。読んで字のごとく、偽の薬でも効果があると信じて飲めば薬の効果があるというものです。
さて人畜無害なものを飲んでも効果があると思うことによってプラスの効果があるのなら、逆もありえます。なんでもないビタミン剤を副作用の強い薬だと信じさせて飲ませると副作用が実際に現れることもあるそうです。
まあそんな感じで人間の体はいい加減なものです。暗示にかかってしまえば思いのままどうとでも変われるのです。そこで、心臓麻痺です。
ある程度自分でも信じて行動しないといけないので、タバコなんかを使います。毎日数回、自分の心臓は弱っている。このままタバコを吸い続けると今に心臓麻痺を起こして止まってしまう、と念じながらタバコを吸います。何日後に心臓は止まるか分かりませんが、ただ自分は心臓麻痺で死ぬんだと念じるだけで心臓麻痺で死ねるのならこんな簡単な自殺方法は無いでしょう。別に難しいことは何もありません。まあタバコがどうしても吸えない人は、アルコールでもいいですし、自分さえ心臓に悪いと思い込めればなんだっていいはずです。
どうでしょうか。自殺したがっている人にこんな自殺方法を紹介するとしばらくは、直接的な自殺は防げるんじゃないかな。

3月7日の日記

2007年3月7日
キャバクラにとってかわる新しい遊びを開発しました。たぶんそんなにお金はかからないでしょう。かわりに、お酒を飲む事はできません。なので、下戸の人にはちょうどいいかもしれません。あと100%本物の女医さんと仲良く話せます。
察しのいい人なら想像付いているかもしれませんが、若い可愛い女医さんのいる精神科、心療内科といった心の病を持った人が通う医者に行きます。そういった診療所にいる先生は、落ちのない話を永遠としても怒りませんし、いい話をすれば気持ちよくなる薬を出してくれます。またすばらしいことに、キャバクラは全額負担なのに、精神科は保険が利き3割負担でいいです。
ただ問題は一つです。どこの病院に可愛い女医の精神科医がいるかがわからないことです。それさえ解決できれば、営業メールは送ってくれないでしょうけど女医さんと仲良く中身のない話を出来るのです。誰か金の無い私の為に、綺麗な女医のいる精神科を紹介してください。

3月6日の日記

2007年3月6日
団地で女子高生2人が自殺図る、1人死亡…東京・板橋
 6日午前0時20分ごろ、東京都板橋区高島平3の高島平団地5号棟屋上の階段踊り場付近で、少女1人がロープで首をつり、もう1人の少女がそばにあおむけで倒れているのを、行方を捜していた両親が発見した。
 首をつっていたのは、同区内に住む私立高2年生(17)で、既に死亡していた。倒れていた横浜市の同級生(17)は、病院に運ばれ、意識を回復した。
 警視庁高島平署によると、2人は、屋上の給水塔に上がる手すりに、ロープを並べるように掛けて首をつったとみられ、うち1本は踊り場に落ちていた。死亡した生徒のカバンの中に家族あての遺書があったことから、同署は、2人が自殺を図ったとみている。

こんなニュースがyahooにのっていた。このニュースを見て人は何を考えるのだろうか。私は、こんなストーリーが頭の中で組み立てられていった。
きっとこの二人は消極的なイジメにあっていたのだろう。容姿がハリセンボンのように痩せ型と太り型の二人はもう生きていくのが嫌になって自殺した。痩せ型の人は首吊り自殺を成し遂げた。太った人は、体重を紐が支えきれずに切れて生存した。悲しいかな人生、太っていることが原因でいじめられてたのに、その肥満体系が自分の命を救った。

いやー美談だね。事実無根で美談でもないか。そういえば、宇多田ヒカル氏の離婚特集で宇多田氏の経歴を見ていて思ったのだが、子宮筋腫にかかった時に死んでいれば今頃は神格化されて歌姫になっていたんじゃないかね。現在はデビュー時に比べて神の衣が剥がれて一般人に近づいていっているようなきがする。最近出たアルバムは離婚したから売れたと私には思われるだろう。そんなの僕の宇多田ちゃんじゃない。

妄想が過ぎるのできょうはこのへんで

3月5日の日記

2007年3月5日
最近時間が無い、気がつく一日が終わっていると思っていたら、DSでゲームをしていたのが問題だったようである。しかし何年経ってもゲームは進歩しないものだ。今だに昔私が感じだ不満は解決しないまま進んでいるようである。
さて、最近世界樹の迷宮というゲームをしていた。自分で、マップを描いていくことが売りのRPGだ。
最初は物珍しさもあって、まじめに地図を書き込んでいた。しかし、飽きっぽい私は、数階分地図を描いていたら地図を描くことに飽きてしまった。それに本は2度読まない主義の私は、RPGも似たようなもので、同じ迷宮を2度探索することなんてない。すなわち、完璧に地図を描いていってもそれを利用する機会が無いことに気がついて、階段以外の位置を地図に書くことはなくなった。しかし、地図に情報は書き込まなくなったが、一応すべてのフロアを探索してから次の階に行くことを心がけていた。しかし、昨日とうとうそれにも飽きてしまった。イベントだけ消化してフロア探索もせずに階段捜して物語を進めるようになってきた。敵が強くて行き詰ったら、レベル上げだ。
しかしそろそろゲーム自体に飽きてきたかもしれない。この単調な作業がどうしても私にはあわない。なぜ私はしたくも無いレベル上げをしなければならないのだろうか。なぜ迷宮を探索しないといけないのだろうか。物珍しさがきえてこなれてくるとゲームが作業にかわる。ゲームはみんなそんな感じである。一つのゲームであるかぎり根幹のシステムは一種類である。私はそのシステムになれるともうゲームを楽しむことが出来なくなっているのである。どうせなら、ゲーム開発段階で没になったシステムを組み入れて欲しい。没になったシステムに飽きる頃、第一階層を終えて次の階層に踏み入れる段階で、次のシステムに刷新されて感動を覚えるのである。
そんな感じでわずらわしさを感じないゲームだったらよかったのになと思ったのだが、よく考えたらそんな事関係なかったかもしれない。かねがねRPGでストーリーだけをさらっていくモードがあればどんだけ私にあっているだろうかと思っていたのだが、考えてみたら私はひぐらしのなく頃というゲームも挫折していた。ストーリーだけのゲームだった。ストーリーも面白いと思った。しかし、ゲームを最後までやり遂げることが出来なかった。
結局なんだ。何が悪かったのか考えてみた結果ゲームが悪いから私が最後まで成し遂げれないのではなく、ゲーム自体にあわない私が悪いんだろうね。やる気の無さでゲームにまで見放されてしまった私はどうすればいいのだろうか。

私が挫折したといえば、ゲームも勉強も似たようなものなのかね。ただ違いは勉強はやっても確実に効果がやった時間に比例するとは限らない。ゲームはやったらやっただけ効果があらわれる。だから、最近のゲーム世代は、物事に挑戦して失敗した時に自分はがんばったんだから褒めてくれよといっちゃったりする。どんなにがんばってつくってもマズイ料理はまずいのである。がんばったとかは関係ないのだが、がんばったから褒めてくれなんて甘いこと言っちゃってと思っていたのだが、やったことがやっただけ評価されるゲームをしてきたせいで、最近の若い人は頭がおかしくなっているのかもしれないね。それに係わる人もそれを肯定しだしているとしたら、私以外みんなおかしくなっているんじゃないだろうか。それはすなわち、客観的にみれば私がおかしい証左ということになるのだろうか。
今日図書館に行ってこの本を借りてきた。借りる時、司書の方が怪訝そうにこちらの顔を見ながら貸し出しの処理をしていたので心の中で『半ひきこもりの私が図書館の本を借りることになんか文句あるのか、文句あったらぶっ殺すぞ』なんて事を考えていた。もし私がひきこもりではなく外交的だったら声に出して対応がなっとらんと怒っていたことだろう。まあ無料で本をかしてくれるんだしすこしくらい対応が悪くてもいいかなと自分をなだめて家に帰ってきて、本を読み始めて驚愕しました。まだ1ページも読んでいないのにこの本に書いてあることを感じとる事が出来たのです。私もエスパーの仲間入りかなと思ったら先々週この本を借りていました。だからですかね、司書さんが怪訝そうな顔をしていたのは、いやーひきこもりでホントよかった。声に出してたらホントに最低でした。まあ声に出していなくても私は最低なのですが。

やっぱり読んだ本はここに記録を書いていかないとダメなのかね。そんなことを思って、この本の感想を書こうと思ってみたモノの筆がいっこうに進みません。何でかなと思って本をパラパラめくってみるとどのページも読んだ記憶はあるのにまったく内容を覚えていません。読んでいくたびにそうだったと思い出すのですが、いっこうにどんな話だったか思い出せません。読んだのに夢のよう。そこでまたびっくりして私は今日2度びっくりしたのでした。このあとミステリーのトリックにびっくりすれば、007は三度驚く、なんてね。

3月3日の日記

2007年3月3日
怖い話をきいた。善い行いをすると自分にも善い結果が返ってくるという考えはカルトのはしりみたいなものらしい。逆もしかりである。

大地震にあうのは、その場所に住もうと思った事を抜かせば自分の行いとなんら関係は無い。その他、身内が早死するのもそうである。すべての不幸は、運が悪かったか、明確に定義できる原因があったかのどちらかである。微妙とか言うものは存在しない。もし運が悪く不幸なことが起こった場合はそれは少なくとも自分のせいではない。
何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、損得勘定だけで行動するのはあまり道徳的には褒められない。しかし、自分に善いことが起こって欲しいと思って募金するのはもっといけないことだ。勉強したからテストの点数がよくなるのと分けが違う。そこいらを混同しはじめると人間やばい方向へ向かっていくようだ。
そんな感じなので、自分はいい事をしているとだけ思い込んで市民活動している人は、自分のとっている行動がどうして善い行いかを今一度考えてみるのもいいんじゃないかね。もしかすると、自分がカルト集団にいたなんてこともあったりしてね。

3月2日の日記

2007年3月2日
http://allabout.co.jp/family/yarikuri/closeup/CU20070228A/index.htm

余裕があったら上の記事を見てください。上の記事を要約すると、相当頻繁に蛍光灯をつけたり切ったりしない限り、蛍光灯も使わない時は切った方が電気代が安くなるらしい。
「電気は短時間であれば消さないほうが電気代が安い」なんてのは根拠の無い嘘らしい。電力会社の陰謀である。ただ、蛍光灯をつけたり切ったりすると一回に付き蛍光灯の寿命が約30分短くなるそうです。大体蛍光灯は1万時間が寿命らしいので一度の点灯で2万分の1寿命がなくなります。もし蛍光灯が400円だとしたら一度の点灯のコストは2銭ですか。2銭でどれくらい蛍光灯を光らせられるかわかりませんが、少しでも使わない時は蛍光灯は切った方がお得なようです。

という感じが上の記事ですが、実際のところ使う時も蛍光灯は切った方が電気代は安くなります。さすがに部屋で本を読むときは蛍光灯が必要かもしれませんが、例えば寝転がってテレビやゲームをするときは蛍光灯を切るのが一番安い。明かりがどうしても必要な時以外蛍光灯を切るのが一番の省エネです。

3月1日の日記

2007年3月1日
音楽教師に君が代伴奏強制に関する裁判で最高裁判所が下した判決を不当判決だと言っている被告支援者みたいな人がテレビに映っていた。最高裁判所ででた判決をなぜ不当と思ったのだろうか。たぶん最高裁判所は間違った判決をだしたと思っているということは、自分の主張は正しいと思っているのだろう。それなら自分が正しいと思っている根拠はなんなのかね。今まで最高裁の裁判官が国民投票で罷免されていないところを見ると、最高裁判所の判決に対する国民支持率は内閣支持率よりも高いんだと思う。まあ支持する人の量がその意見の正しさではないと思うが。
まあ問題は、もっと根本的なものか。憲法の思想、良心及び宗教の自由という規定を持ち出して自分の意見を主張するのなら、たぶん憲法のどこかで規定されている国の最終判断である最高裁判所の判決を不当だというのはおかしいのではないだろうか。もし最高裁判所が憲法を無視して不当な判決を量産しているというのなら、そもそも憲法をたてに思想、良心及び宗教の自由を訴えてもしょうがないだろう。もし憲法に頼りたいのなら最高裁判所の判決ぐらいは認めようよ。それが嫌なら日本国憲法の及ばない外国へ出て行けばいい。法律に頼るなら最高裁判所が絶対だということも認めるべきじゃないのかね。

2月28日の日記

2007年2月28日
今日は最悪な一日だった。

2月27日の日記

2007年2月27日
オレオレ詐欺って嫌がらせには使えませんかね。まあ、相手の口座番号を知っていないといけないので、インターネットオークションでムカついた時とかしか使えないかもしれませんが。
やる事は、嫌がらせしたい人の銀行口座を使って振り込め詐欺を行うだけです。うまくいけば、嫌がらせしたい人の銀行口座が凍結されたり、警察の事情聴取を受けるはめになるのではないでしょうか。勝手に大量の出前を取る嫌がらせの拡張版ですか。出前のかわりに警察に疑われるようなことをすると、面倒くさい対応を迫られることになるんじゃないかね。

そういえば、ふと思い出したのだが年に一度ほど住みやすい街ランキングが発表されている。あれをランキングしている人はアホとちゃうのかね。シムシティをプレイしたこと無い人なんではないだろうか。人口当たりの公園や図書館や学校や病院の数がどれほど住むのに重要なんでしょうか。シムシティというゲームにおいて寄せられる住民の不満は、まず第一に雇用です。あとは犯罪、公害、税金、住宅費などです。
ゲームの方がよっぽど住みやすい環境を比べるのに向いていませんかね。

2月26日の日記

2007年2月26日
気がついたらこんな時間だった。何て時間がたつのは早いのか、時計が間違った可能性を考えてみる必要があると思った。それで今日一日何をしてたか考えてみて愕然とした。今日起きてから、何もしていなかった。何もしなくても時間は驚くようなスピードで進むのね。こんなことなら、今の時間なんて気がつかなければよかった。

何も無かったので愚痴でも。企業のホームページにいくとフラッシュが使われていることがある。アホな大手企業だとトップページすべてがフラッシュだったりする。どう考えてもあつかいにくいと思うのだけどフラッシュのページってそう評判悪いものじゃないのかな。HP制作会社が金を稼ぐためにフラッシュにしているなんてことはないんだよね。たぶん、滞留時間も延びるだろうしフラッシュはデータ的には良いように作用しそうだけど、それが閲覧者の利益に直結してるとは思えない。そもそも、私は製品カタログが見たいだけなので、もっとしょぼいHPでいいのよ。見栄ばっかり張りやがって。見た目なんてどうでも良いから、内容で納得できるHPにしてくれないかな。フラッシュ使うのはテレビCMを配信するところだけでもいい。

2月24日の日記

2007年2月24日
昨日は富士山記念日だったのに忘れていた。
「この丘がいいね」と僕が言ったから2月23日は富士山記念日
富士山の話題だったら事欠かなかったのに、今日はもう二人が死の日ですよ。

携帯電話を使うと脳腫瘍の発生のリスクが高まると言う研究結果が外国で発表されテレビなどで話題になったそうです。日本では、スポンサーの関係からかテレビで取り上げられていないことになっていますが、それは大きな勘違いを含んでいるのではないでしょうか。何でも研究結果では、携帯電話を使わない人に比べて脳腫瘍のリスクが1.5倍に増えるそうですが、それがどうしたと言うのでしょうか。例えば100倍に増えるとかなら恐怖を感じますが、1万人に4人でも6人でもたいして関係ないでしょう。まあまだ歴史の薄いものなので継続使用で、指数関数的に発生率が増えていったら怖いですけどそれにしたって50歳まで生きれば十分じゃないのかね。
しかし、実際のところ研究では、頭にくっつけて通話するのが危険だと言われただけです。メールをしていれば携帯電話による危険は無くなると言うことです。
ウィルコムやソフトバンクの通話料無料化で通信コストさえ安くなれば、電話したい人が沢山いることが分かってきました。しかし、大手携帯電話会社は、通話量の増加による設備負担増を恐れて、メールやインターネットなどのデータ通信定額化で通話欲求をごまかしてきました。
それで、最近話題になった携帯電話の脳腫瘍リスクの増加、これはテレビが取り上げないことで携帯電話会社の陰謀を連想して、携帯電話での通話は危ない、メールにしようと客をリードしているようです。客が通話の定額化を求めない限り、携帯電話の通話料は高止まりしたままです。寡占で競争が無い分野で値下げ圧力をかけるためには利用者の声しかありません。
世にでてくるニュースには裏があるものばかりです。

2月23日の日記

2007年2月23日
チェンジザルール ルールは変更されるのだろうか。
私も最近の人権意識の高まりに違和感を覚えている一人です。例えば、遺伝性の病気を持った人に、お前の遺伝子には欠陥があって子供をつくると子供も欠陥もちになる可能性が高いから子供をつくるな!!と公の場で地位ある人が発言をすれば問題になるでしょう。
最近は、医学の発達で妊娠時に羊水を採って検査することで、子供のダウン症などの病気を知ることが出来るようになりました。しかし、子供がダウン症だと分かったとしてもそれを理由に堕ろすのはいけないことだと主張している人達もいます。人権意識が高まることによって、病気や障害を理由に差別してはいけない風潮が出来てきました。

話は変わりますが、日本では近親婚が禁止されています。近親相姦も禁忌とされています。私が知っている限り近親者間で子作りが禁止されている明確な理由は一つだけです。近親者間で子供をつくると虚弱体質だったり障害児が生まれる可能性が高いので、近親婚が禁止されていたんだったと思います。
しかし、それは人権意識の高まった今の時代にそぐわないのではないでしょうか。例え近親婚で子供をつくって虚弱体質だったり障害児が生まれるとしてもそれは、近親相姦を禁止する理由にならないのではないでしょうか。障害を差別してはいけないのならね。
だから私は、最近の人権意識の高まりに違和感を感じたのですね。人権!!人権!!と言っている人たちは近親相姦を肯定してるんですよね。いやー人は見かけによらないですね。

2月21日の日記

2007年2月21日
http://www55.channel.or.jp/human_labo/index.php

凄いよく当たると紹介されて上のテストを受けてみた。そしたら、なんと、『あなたは N.チョーダメ人間タイプ 』に分類されてしまった。チョーなんてちゃんとした日本語も使えないやつにダメ人間と言われるなんて心外である。
まあ適職の部分が最後の一文以外概ねあっていたのが驚きだった。

アナタの適職
アナタに向いている事といったら、ただ何となくボンヤリと遊んで、一日一日を浪費して行く、という愚にも付かない行為だけのような感じがするねぇ。もしも私の想像どおりにアナタの人生が進行して行くとしたら、これからのアナタが生き延びていける行動半径は、一日一日、日を追って狭められていく可能性が強いだろうね。そして最後に追い詰められる場所がどこかは、余りに気の毒すぎて言えないけれども、最終的に物凄くミジメな事に成りたくなかったら、今すぐ死ぬ気で敗者復活戦の第一歩を踏み出すんだねぇ。

最後の一文が「最終的に物凄くミジメな事に成りたくなかったら、今すぐ死ぬんだねぇ。」だったら言うことなかったのにね。
でもまあこんなテストだったら当たるのも当たり前かもしれませんね。
質問の回答をまとめると、他人には厳しく、道徳や規則は守らず、権利だけを主張して、他人には冷たく、心が狭く、自分の損得だけで動き、すぐ感情的になって怒りやすく、怠け者。
多分誰が見ても、ダメ人間だってわかるでしょう。もうどうしようもないですね。

そういえば最近日本では食品に虫混入が話題になっていますが、面白い話がネットに載っていました。

アメリカでは食品医薬局が混入昆虫の最大許容レベルを定めています。たとえば、ピーナッツバター100グラム当たり昆虫の断片50個まで。 カレー粉では25グラム当たり100個まで。缶詰トマトでは缶当たり果実を加害するミバエの卵5個とウジ1匹、ウジだけなら2匹まで…… といった具合です。これはビックリするほど甘い基準です。つまりアメリカでは、バターに目立つほどゴキブリの破片が入っていても、 ケチャップにいかに果実食の昆虫とはいえ、ウジが数匹入っていても消費者のクレームの対象にはならないのです。
なおアメリカ当局は、「このレベルは殺虫剤を多用すればもっと下げられるが、無害な自然物の混入を殺虫剤の混入に置き換えることは賢明ではない」 とまでいっています。

だそうです。やっぱり外人はアホですな。蛆虫を食うのと殺虫剤で健康を害して早死にする可能性があるのとどちらが嫌だと思っているのでしょうか。私は断然、農薬がバリバリかかった虫がまったく付いていない過剰農薬野菜がお好みですね。それとかパンにしても、半分食べて一週間放置しておいてもカビが生えずそのまま食べれるパンの方が優れているに決まっているでしょうにね。
心の狭い日本人は、虫も嫌だけど農薬も嫌というむちゃくちゃな要求を出すクレーマーなんですけどね。

2月20日の日記

2007年2月20日
もしこの世界に神様がいるとしたら相当、ひねくれた性格のクソですね。多分天界では仲間の神様から仲間はずれにされて誰も相手してくれないので、下等な人間にちょっかいを出すかまってちゃんみたいな感じでしょうか。
昨日、何も考えないで家の階段を下りていたら子供のゴキブリを踏んでしまいました。確かに、最近日記のネタに困って何かネタになる変わったことは起きないかなと神様に頼みましたよ。しかし、ゴキブリを踏んづけるなんてネタ欲しくなかったよ。確かに変わった出来事ではあるけれど、ゴキブリを踏むなんてありえないだろ。普段は目が合っただけでも勿論新聞などで潰そうとしたら俊敏な動きで逃げていくゴキブリが普通に階段を下りていく私の足に踏み潰されるなんて・・なぜ冬なのに靴下を履いていなかったのだろうか。なぜスリッパを履いていなかったのだろうか。なぜ階段の電気をつけて床を見ながら階段を下りなかったのでしょうか。後悔がやみません。せめて、踏んだ感覚だけで満足しておいて何を踏んだか確認しなければ良かった。唯一の救いは体が堅くて足の裏をじっくり見れ無かったことぐらいです。

まあ神様批判ばっかりして無いで対案を出せって感じですか。もっと具体的に起きて欲しい出来事をお祈りするべきでしたか。
じゃあどんなネタだったら私好みだったかというと、突然ビデオデッキが壊れるところから物語は始まります。壊れたビデオデッキも10年近く使っていた骨董品みたいなものなので修理などを考えずに新しい物を買いにヤマダ電機に行きます。久しぶりに訪れる電器屋には見たことも無い商品であふれています。一通り見てまわっても国産メーカーのビデオデッキが見当たらないので店員に聞きに行きます。そこでうまいセールストークにのせられて、ビデオデッキはもう時代遅れで、HDDレコーダーを進められます。何でもビデオテープが無くても本体に録画できて、保存したい場合はDVDにデータを入れることが出来る商品らしくビデオテープに占領されていた部屋をDVDに替わることで部屋が開放されるらしいです。まあうまくのせられてソニー製品を買って家路に着きます。その後苦闘して、レコーダーの設定を行います。説明書を読むともう野球の延長で録画失敗することがなくなるとか、夢みたいな話が沢山のっていて期待で胸が膨らみます。レコーダーの設定を終えて、録画する番組をセットしようとしてあることに気がつきます。最近はテレビを見なくなって普段はニュース番組しかみません。ついでに見たいニュース番組があるわけは無くその時間にやっているニュースを見ているだけです。改めて番組欄を見てくだらない番組しかしていなくて見たい番組はありません。いくら優れた機械を買ってきても面白くないテレビは面白くないままだということに気がつき少し気落ちします。

ちょっと話は変わりますが、こんな番組放送してくれませんかね。多分最近の連ドラって長すぎなんですよね。多くの場合面白くなく不人気であっても予定があるので10話ぐらい続きます。かなり時間の無駄だと思いませんか。そこで提案なのですが、一時間枠で放送するのショートドラマを複数の若手監督に作らせるってどうですかね。毎週違う監督にショートドラマを作らせて1クールに10作品ほど放送します。1クールの締めには放送された10作品の人気登場を行い最優秀に選ばれた監督は後日2時間枠のドラマ制作権が与えられます。年間で4つの2時間ドラマが出来ますが、年末の締めで4作の中で優秀作品をきめて、連ドラ権もしくはテレビ局バックアップで映画作製権をあたえるとかね。マンガの週刊誌の新人読み切り作品みたいに、新人監督にショートドラマを作らせて視聴者の評判を確かめて次の段階へ進んでいく。まあそんな感じです。一時間のショートドラマって難しいんですかね。そんなあっさりしたドラマが見たいです。

さて、レコーダーでテレビ録画に見切りをつけた私は、次は最初からレコーダーに録画されている作品を見ようと思い立ちます。昔、インターネットで無修正エロ動画を見るために買ったPCにはなぜか、ゲームだったり辞書だったり家計簿ソフトだったり使いもしないソフトが沢山最初から内蔵されていました。それと同じでレコーダーにも最初から、数作品の名画といわれた映画やちょっとした番組が録画されていると思っています。しかし、買ってきたクソニーのレコーダーには、何も映像が録画されていません。わざわざソニーピクチャーズを傘下に持つソニー製品を選んだというのに、このサービスの悪さに辟易します。
実際問題、ジブリの2000年以前の映画とか、最初からレコーダーに録画しといても誰も損しないでしょう。ジブリにしても一作品100円のライセンスぐらいにしといても十分なんじゃないかね。

結局、夜も更けて明日に差し支えるといけないのでレコーダーで新しい映像を見ることは諦めて、エロビデオマイライブラリーのお気に入り作品を見てオナニーして寝ることにします。ビデオテープをレコーダーに挿そうとして愕然とします。なんとHDDレコーダーにはビデオテープ差込口がついていません。そこで、HDDレコーダーのあまりの使えなさに堪忍袋の緒が切れてメーカーに苦情の電話を入れ、クレーマーとして扱われている自分に気がついて愕然とします、私が神様だったのかと・・・

2月19日の日記

2007年2月19日
ふと思ったのだが、日本人ってキチガイの巣窟なんではないだろうか。非公営ギャンブルにパチンコやスロットと呼ばれるものがある。
日本のスロットやパチンコは、世界のギャンブルで物凄い異端なのではないだろうか。世界中には様々なギャンブルが存在すると思う。しかし、多くのギャンブルはルールは一生固定されているんじゃないかね。ギャンブル用の施設や設備を整えたらそのギャンブルが続く限り永遠に同じ設備を同じ賭け事でカジノを経営している。
それにひきかえ日本のスロットはどうだろうか。あまりスロットをしないので知らないのだが、近所のパチンコ屋でも数ヶ月に一度新台いれかえと称して店先に花輪を飾ってイベントをしている。
ギャンブルとしてありえるだろうか、定期的に台を交換して、一部ルールをどんどんかえているなんておかしすぎではないだろうか。スロット台に液晶画面が必要なんだろうかとかそもそも、定期的に台をいれかえる必要があるのだろうか、基盤をいれかえれば外枠をいれかえなくても手軽にスロット台を変えれるんじゃないだろうか。そもそもが、ギャンブルではなく遊戯機だから同じものだと飽きてしまうからかね。
さて昔は携帯にカメラをつけたモノがでた時、ハイテクの無駄使いこいつはキチガイな商品だと思いましたが、今ではそうでもなくなりました。ということは、現代のギャンブルとして今のハイテク無駄遣いスロット台も将来期さえ熟せば標準となりえるのかね。

2月17日の日記

2007年2月17日
にっぽんの現場 「職場の絆を…大運動会・ムカデ競走」

という番組の再放送がテレビでやっていた。物凄い現代社会の問題を浮き彫りにしたような番組だった。派遣社員や契約社員が増えてきて格差社会が広がっていることが散々問題されているが、一番の問題は、派遣社員や契約社員の法意識の低さがあるのではないだろうか。いうなれば、無知と馴れ合いが自分の待遇低下を招いていることに気がついていないのか、権利を自分で守らなければならないことを知らないのか、もしくは自分の待遇改善に対して向上心がないのか、何にしても派遣や契約社員が一番問題を抱えているようだった。

上記の番組では、職場に契約社員や派遣社員が増えて職場に一体感がなくなり風通しの悪くなったことを改善するために、会社運動会をすることになった会社のドキュメンタリーだった。運動会に向けて仕事時間終了後会社に残って練習をするのだが、すべての人が無給で駆り出されているようだった。社員が無給で会社行事に参加するのは、まあいいと思う。人間関係や出世競争などあって弱い立場なんだから仕方ないだろう。しかし、時間給で雇われている派遣や契約社員は事情が違ってくるんじゃないかね。彼らは、仕事に対して給料が払われているわけでなく、時間拘束に対して給料が支払われているのである。会社の裁量が入り込む余地はないと思う。拘束された時間に対して給料を請求するのが時間給で雇われているものの誇りだろう。それなのに、無給で運動会の練習をさせられたことに対してなんら請求を行わない。明らかにおかしい。多分波風をたてたくないんだろうけど、それが問題である。そんなんだから低待遇で雇われるのである。派遣や契約社員にとって愛社精神とか社内での協調性というものはクソである。解雇条件が軽いかわりに求められるものも低いはずである。
最低の条件で雇われているのだから最低限でしか働かなくていいだろう。そのいい加減さがないから、派遣や契約という制度を会社にいいように使われて搾取されているということに気がつくべきである。契約や派遣社員が使えなければ正社員を増やすしかないのだから。あとは一人の力ではどうしようもないことだが、安い賃金では働かないことである。出来すぎた野菜は生産調整をしてすてる。なら、雇用に関しても安い賃金では働かなく、高い志で就職活動して、雇用されるまでは職がないことを理由に生活保護受けるべきではないだろうか。多分辛く長い道だろうけど、それを受け入れないから、派遣や契約社員の待遇は低いままなのである。権利は自分が戦って勝ち取るしかない

ショックすぎることがあった。先週考えていた女性用のソープランドは実際にあったらしい。新しいこと考えたと思っていたのに、すでにあったなんてかっこ悪すぎる。私の思考が時代に追い越されてしまったきがする。

2月16日の日記

2007年2月16日
忘れていたが今週の水曜日はバレンタインデーだったらしい。頭の弱い子がバレンタインデーにチョコをプレゼントするのはお菓子屋の陰謀だと言っているのを目にする。まあ陰謀であることにはかわりないのだが少しニュアンスが違うのである。
日本では、チョコといえばバレンタインデー、バレンタインデーといえばチョコと言うぐらいチョコとバレンタインデーは密接に関係している。だからバレンタインデーには沢山チョコレートが売れる。しかし、逆をかえせば、チョコレートはバレンタインデーだから売れるのである。世界を見ればチョコレート専門のお菓子屋などもある。しかし日本の場合チョコレートはバレンタインデーという思い込みがあるためにチョコレート専門店を経営するのは非常に難しい。本来なら味では比べ物にならないほど低質で安価な工場で作られた大手菓子メーカーのチョコレート菓子が普段は売れるようになったのである。チョコはバレンタインデーという思い込みが潜在的な高級チョコ愛好家を遠ざけているのである。専門店があり高級チョコレートを普段から食べる習慣さえあればスケール効果で専門店のチョコレートももっと安くなっただろう。そうなれば専門店のチョコレートは大手菓子メーカーの脅威となりえたかもしれない。しかし、バレンタインデーにチョコレートを贈ろうというキャンペーンで大手菓子メーカーはチョコレート専門店の芽を摘んだのである。凄い陰謀じゃないですか。
私はとある部屋で目を覚ました。薄暗く、物音一つ無い場所だった。
前方には、5人の男がそれぞれ柱に縛り付けられていた。
私は直ちにこの奇妙な場から去ろうとするが、足首を頑丈な鎖で縛られとても動けそうにない。
そして私は目の前に置かれている一枚のメモ紙に気づく。
そのメモ紙にはこう書かれていた。
「目の前の5人の男の中には一人だけ死刑囚が紛れている。
 お前は明日までに手元の銃でその死刑囚を殺さなければならない。
 撃つ前にそれぞれの男に1回のみ質問をすることが出来る。
 指示通り、死刑囚を殺した場合にはお前をこの場から逃がしてやる。
 ただしルールに違反した場合、その場でお前は命を失うこととなる。」
私は早速それぞれの男に「お前は死刑囚か」と問いかけた。
男A:「私ではない。だから私以外の4人の中に死刑囚が居るはずだ」
男B:「私ではない。だが私は誰が死刑囚なのかを知っている」
男C:「私ではないが、私も死刑囚が誰なのかを知っている」
男D:「私ではない。そして私は誰が死刑囚なのかも知らない」
男E:「私ではない。第一私はこれまで罪を犯したことが一度も無い」
やはり自らを死刑囚と名乗るものは居ないだろう、私は結局ここは5分の1に賭けるしか無いのか、と考え込んだ。
しかしその時、私はふと気付いてしまった。そして確信した。誰が死刑囚なのかを。
私は迷うこと無くその死刑囚を銃で撃ち殺した。
すると私の足首を縛っていた鎖は解かれ、私はその部屋から脱出することが出来たのだ。

さて、死刑囚とは5人の男のうち一体誰だったのだろうか?
ただし、文章内に登場する以外の手がかりは無い物とする。

条件 ?メモを全員が読んでいる
?質問の順はABCDEだ
?ABCDEはもっとも合理的な判断をする
?死刑囚は嘘をつき、死刑囚以外は本当のことを言う

差別を極端に嫌う人が多くいるようである。下手をすればたいしたことでもないのに差別だといって過剰反応している人がいる。視覚障害者でもめくらでもどっちでもいいじゃないかと思う。えてしてうわべだけで物事を判断してそれは差別だーと言い出す人ほど差別が大好きなようだ。差別に理解ある人ほど、他人が行う差別行動に目くじらを立てない。また、差別にとられないように気をつけたりもせず、普通にでてしまった差別を隠そうともしない。
私が気になるのは、差別を反対する人は、差別をしたり、差別を肯定したりする人を差別するのか?ということである。多分、三種類の対応が考えられる。すべての差別に反対なので差別を肯定している人も受け入れれるひと。自分が差別反対というスタンスをとっていればその尊い志の現実のため自分に都合の悪いことはすべて差別してもいいと思っている人。差別反対のためならケースバイケースで差別してもいいと思っている人。
世の中、簡単単純なモノほど優れている。複雑であればあるほど評価されるものなんて、詐欺に使う金融商品の仕組みぐらいではないだろうか。複雑になるのはどこかの条件がおかしいのだろう。

という観点から考えるに、個人が差別に関してどう思っていようとすべてを許容するのが矛盾無く一番簡単な解決法なのではないだろうか。ってかなにも解決しないか。そもそも何でも許容する世界では差別問題なんて発生しないからね。

ちなみに冒頭の問題の答えは、私です。言うまでも無く普通に生活している私は、自分の部屋で目を覚まし縛られること無くインターネットをしていました。だから冒頭から嘘をついていたのです。ということは私が死刑囚と言う事なのかな。いや、それすらも嘘なのか、ということはそもそもすべては私の嘘で問題なんて何も無かったのね。
Q.E.D

2月14日の日記

2007年2月14日
困った、無限劣化ループに迷い込んでしまった。最近、仕事も慣れてきて毎日毎週毎月の生活に変化がなくなってきた。無職の時もそんな感じだったが決定的に発想する力が落ちてきているような気がする。発想というか、無関心の割合が増えてきているような気がする。多分、今なら目の前で交通事故があっても私は野次馬にならないでスルーできるかもしれない。これからわかるのは、私の生活が無限ループに陥ったのは生活習慣が変わらないからではなく、私自体が変化を遠ざけようとしていることである。普通に生活していれば、一日に1度や2度は、人の笑いを取れる出来事にであう。多くの才能の無い人は、出来事に気づいていないだけである。それで才能のある人を見て、あの人はネタに困らなくていいなと思うのである。

客観的に見てこれは面白いって気がつく才能ってなんなのかね。
昔、画家や音楽家、小説家などの生活を空想して思ったのだが、本人はネタなどに詰まって非常に苦しい思いをしているかもしれないが、彼らは一般人が見れば非常に暇すぎる生活を送っていると思われる。芸術というか創造系の仕事をしている人は概ねそんな感じではないだろうか。本人や経験者にしかわからない苦痛を味わって、部外者からには暇をもてあましているように見える。
創造系に弱い人は空白の時間に耐えられない傾向が強いと思う。何もしないことに耐えられない。私も最近そんな人間になってきた。仕事が暇な時は読書をしていればいい職場なのだが、読む本がなくなった時暇すぎて発狂するようになってきた。別に捜してすればする仕事もあるしぼけーとしていてもいいのだが、私は動く気にはなれないけれど、それでいてぼけーとしていると、暇すぎてイライラしてくる。活字中毒依存症の禁断症状なだけかもしれないけれど。

そういえば、私は寝るときも、寝ようと思って横になってすぐに寝れないと暇すぎてイライラしてくる。ホント暇に耐性のない人間になってしまった。何がいけなかったのだろうか。あくせく働いていることぐらいしか原因は思いつかないが。案外、働いたり学校へ行ったり毎日決められた行動をとる習慣が創造力を奪っているのではないだろうか。

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